「分析」という言葉がよくない

環境計量・化学分析を仕事にしている仲間との忘年会がありました。ちょっと盛り上がりました。

 

そもそも、「分析」という言葉が悪い。

技術的に高度で・難しい仕事をしているのに、どうも評価が低い。その原因の一つがこの言葉にある。

 

分析という言葉の本来の意味は、「分ける」あるいは「分家する」ということ。それから、転じて、「物事や現象・概念を細かく分け、それらの本質を明らかにする。」となった。

後段の”本質を明らかにする”というのが本来の分析の仕事なのだが、「分析」という言葉では前段の”細かく分ける”のイメージが強すぎる。・・・というお話です。

 

じゃ、分析に変わるよい言葉は何かないか?という話になりまして・・。結論は、「鑑定」がよいのではないか。となりました。「環境鑑定」「化学鑑定」です。テレビの鑑定団でも、偉そうにうん蓄を傾ける鑑定士さんの姿が映されています。しかし、本格的な鑑定には科学的な分析が活用されるケースが多いのはよく知られています。

 

同じくテレビの”科捜研の女”の沢口靖子さんも、分析と言わず鑑定と言うから格好良いのだと・・。反論としては、鑑定では占いみたいだな。私たちの仕事では、黙って座ればピタリと当たる?ってわけにはいかないよね。

 

 

ちなみに、英語の「analysis」は、ギリシャ語「結び目をすっかりほどくこと」の意味だそうです。まぁ、分析に似ていますか。

 

少し、話が違うのですが12月12日(旧暦)が福沢諭吉の誕生日だということで、諭吉が外来語を翻訳して作った言葉が紹介されていました。

freedom を「自由」、speech を「演説」、talk を「談話」、moral science  を「修身」などです。

 

その諭吉が翻訳できないと言っていたのが、right でした。

その後、西周が「権利」と翻訳して定着するのですが、”権力を以って利益を得る”という翻訳が、”人が固有に持っていて侵されることのない正義(正しさ)”といったニュアンスと離れてしまったと言われます。

 

また諭吉は日本史上でも稀有な大教育者なのですが、「教育」という言葉が嫌いだっただそうです。教え育むという、指導者からの視点だけでとらえているのが気に入らなかったということです。諭吉を教育者と呼ぶのは間違いかも知れません。言葉はいろいろ難しいです。