天安門広場での抗日戦勝利70周年記念パレードに関する記事が新聞などにたくさんあります。
ざっくばらんに言えば、正しい歴史認識というものは存在しないのだということです。
レーニンが言っているように、歴史のテキストとは「社会的意識が社会的存在を反映させる」ものです。
中国や韓国で盛んに言われている「正しい歴史認識」が実際の歴史的事実と異なるとを主張する論戦に意味がありません。「正しい歴史(テキスト)」を文字通りにそのまま理解するのは、幼児がすることですし、虚構だと抵抗していくのも大人がすることではないでしょう。
古今東西、歴史のテキストとは科学的なものではなく哲学です。歴史のテキストには、そもそも実証性はないのですから、反論することは不可能です。中国や韓国に限らず、アメリカもヨーロッパもどこの国でも同様です。
カントの言葉「人は哲学を学ぶことはできない。ただ哲学をすることを学ぶだけである。」は歴史にも当てはまります。「歴史を学ぶことはできない。歴史を想うことを学ぶだけ。」です。
同じように憲法議論も同じです。現在の日本国憲法がいつ・誰によって・どのように作られたものかを想ってみます。そうして、その後の70年近い年月をたどれば、現在の日本を法が支配する国と言えるかは大いに疑問です。
そろそろ「戦後70年」と言って歴史の起点を1945年に置くことを止めてみてはどうでしょうか?当然ですが、突然に1945年があるわけではないわけです。
ちょうど、中国共産党は抗日戦争は1894年の日清戦争勃発が起点であるとして、121年の歴史であると言いはじめました。(天安門前のパレードの歩数を121歩にしました。)
何故、言いだしたのかという事情はさて置いて、こういう提案はとてもよいものです。
1894年から1945年の間の歴史を振り返ることは、現在の世界情勢を理解して、将来に向けた教訓を得るのにとても有意義です。その際にアジアの歴史を見るのではなく、アメリカとヨーロッパの歴史を一緒に眺めてみることが大切でしょう。この約50年間の歴史も、今につながっています。