親の郷は広島県福山市です。福山市で、琴は全国の70%、下駄は50%を生産しています。
江戸時代の初めに初代福山藩主となった水野勝成は、戦国の世が終わったことからいち早く産業振興を行いました。最も有名なのは畳表で、「備後表」は今でも最高級品です。新田開発を奨励し、当時では日本最大級の上水道網を敷設しました。タバコの栽培を積極的におこなう一方で、塩田開発を進めて製塩業でも有数の規模となりました。
琴の生産も、水野勝成が奨励した産業の一つです。その後の歴代藩主も琴の生産を庇護しましたので結果的に日本一の琴の産地になりました。琴の材料は高品質な桐です。
福山では下駄も圧倒的な日本一なので、琴をつくった余りの桐材を使ったからかと言うと間違いです。実は、製塩業で塩を煮詰めるために薪を使うのですが、余った薪で安物の下駄を作ったのが始まりだそうです。
高級な下駄は桐材で作られますが、福山では琴と下駄には直接の関係はないようです。
そこで冒頭の俳句ですが、ちょっと面白いですね。
『琴となり下駄となるのも桐の運』
作者は、「最後の大名」と言われる、上総請西藩(かずさじょうざいはん)藩主・林忠崇です。
明治維新の前年・慶応3年(1867年)に藩主となった忠崇は、譜代大名として純粋に徳川幕府を思う気持ちを強く持っていました。その気持ちが高じて、翌1868年になんと藩主自らが脱藩して新政府軍と戦うことになります。戊辰戦争に敗れた幕府側は降伏を余儀なくされ、忠崇もあえなく捕えられることになります。
解放された後も困窮生活を送っていましたが、25年後の1894年に復籍を許されて、日光東照宮に勤務します。その後、忠崇は昭和16年(1941年)まで長寿を全うして、東京のアパートで94歳で亡くなりますが、その時点で「最後の大名」になっていたわけです。
この俳句は、忠崇91歳のときの作品です。
同じように桐として生れ育ったとしても、琴となって皆に注目される華やかな人生もあれば、下駄となって人を支える人生もあります。それは、桐の運ではありますが、どちらの人生であっても一生懸命に役割を果たしていくことが、よい人生だということでしょう。