佳子さま 初めての単独地方公務で山口県に・・安徳天皇陵を参拝

6日・7日と秋篠宮佳子内親王殿下が山口県を訪問されて、当地は大騒ぎ・・

 

  安徳天皇西市御陵墓参考地
  安徳天皇西市御陵墓参考地

訪問の主な目的は、下関市にある安徳天皇陵に参拝をされることでした。

ちょっと驚きませんか?天皇の陵墓が山口県にあるのです!!

 

今上天皇は125代ですから、過去に124代の天皇がお亡くなりになっていて、それぞれの陵墓があります。

33代の推古天皇が飛鳥に都を固定するまでは、天皇は一世毎に新しい皇居を立てられていたということです。今の奈良県南部から大阪府の東部にかけてのエリアです。いわゆる「畿内」です。

飛鳥京のあとは、難波京(大阪府)・藤原京・平城京(奈良県)と移って、平安京(京都)に落ち着いて、明治の東京遷都を迎えます。

 

このため、大正天皇と昭和天皇の陵墓は東京武蔵陵墓地にありますが、それ以前の天皇陵は基本的に畿内(奈良県・大阪府・京都府南部)にあります。(ほんの少しの例外が、天智天皇の長子である大友皇子が半年足らずの間だけ即位をしていたとされて、明治になってから39代弘文天皇と追号されています。この弘文天皇は近江大津宮を造営したので陵墓が滋賀県大津市にあります。当時皇居があったので、これも「畿内」です。)

 

畿内にない天皇陵は2例だけです。

ひとつが、藤原仲麻呂の乱で敗れて廃位となり淡路島に流された、47代の淳文天皇の淡路陵です。

 

もう一つの例が、81代の安徳天皇です。

先代(80代)高倉天皇の父は後白河天皇で、母は平清盛の義妹である平時子ですが、22歳を前に病没します。安徳天皇は高倉天皇の皇子で、母は平清盛の娘・建礼門院徳子です。父帝の夭折によって、わずか1歳にして即位することとなります。

 

その後、源平の戦いに巻き込まれ、未だ6歳にしかならない幼帝は祖母である平時子(二位禅尼)に抱かれて壇ノ浦の激流に消えたという悲しいお話です。これによって、栄華を極めた平家は滅亡することになりました。ただ、遺骸があるわけではなく、実はその後も逃れて生きておられたという伝説が各地にあります。

 

このような事情から、安徳天皇陵墓をどこに定めるかはいろいろな経緯があったようです。現在は、下関市の赤間神宮内にある阿弥陀寺陵が公式に定められています。それ以外にも宮内庁が公式に認めている陵墓参考地だけでも全国に5か所あります。

上の写真は、その一つ下関市豊田町にある安徳天皇西市御陵墓参考地です。