土曜日に萩藩の藩校・明倫館のことを書いた続編です。
明倫館など各地の藩校では、諸士の子弟だけが学んでいました。
諸士以下の下級武士や百姓や商人、職人が教育を受ける機関として、吉田松陰が教えた松下村塾のような私塾が全国にありました。
緒方洪庵の適塾、シーボルトの鳴滝塾などは有名ですし、福沢諭吉の慶應義塾、佐藤泰然の順天堂などは今に残っています。
ところで、吉田松陰は1854年にペリーが日米和親条約の締結のために下田に来たときに、密航を企てて果たせず、捉えられて入獄します。
そのペリーの伝記に『私は世界をいろいろと航海してきたが、欧州においてさえ、日本人のように落ち着いた華麗さを持った国民に出会ったことがない。』と記されています。
江戸後期の日本の人口は約3000万人(内訳は武士が200万人・農民が2500万人・商人が120万人・職人が80万人・神職僧侶が合わせて40万人・その他60万人といったところ)です。学齢人口は600万人くらいです。
この600万人に対して、藩校が250に加えて、私塾や寺子屋が、合わせて15,000ほどあったそうです。1校当たりの学齢人口が400人です。
教育内容は「読み・書き・そろばん」から、政治や思想までいろいろでしょうが、かなりの数の教育機関があったことになります。
結果として、江戸後期の識字率は、江戸などの大都市では70%、全国平均で50%くらい(但し、男女で差があり、男性が60%で、女性が30%くらい)だったようです。
当時の欧米では、支配層は学問を修めても、庶民はできるだけ無知なままにしておこうという考えが主流だったようで、先進国イギリスでも識字率は30%に達していませんでした。
ペリーは日記で『読み書きが普及していて、見聞を得ることに熱心である。日本では田舎にまでも本屋がある。』ことに驚いています。
今、地震の被害に遭っているネパールでは、現在に至っても女性の識字率は50%に達していません。(男性が72%) 多くの学校も地震の被害に遭ったようです。日本の国際貢献にはいろいろあるでしょうが、地震に倒れないしっかりした校舎を作って、女性や子どもたちの教育を支援することは、両国にとって意味あることだと思います。