明治から大正にかけて、鐘紡の工場経営を時代を追いながら見ていきます。
武藤山治が兵庫工場長に就任した1897年当時は、日清戦争景気が終わり綿糸は大幅な供給過多になっていました。業界各社は、非常に厳しい競争にさらされていきます。
このとき、武藤が取った第一の戦略は『よい綿花を使ってよい品質の糸をつくる』ことです。中国綿花からインド綿花やアメリカ綿花に原料を変えていきながら品質で差別化を目指しました。
第二の戦略は『修繕費を惜しまず機械の保全を完璧にする。機械を使う男女工を優遇し教育し、自然に働くようにする』ことです。品質での差別化には職工の技能と意欲を高めることだと力を注いでいます。
これによって、兵庫工場の糸は市場での評価が高まり、高値で売れて、好業績になりました。
その間も、鐘紡は工場の新設や買収を続けていき、1900年には国内に8工場を持つまでになっていました。(最終的には30工場まで増えます。)しかし、新しい工場の糸は兵庫工場の糸より1割ほど安い値段でしか売れませんでした。品質に差があったのです。
本店支配人となった武藤は実質的に鐘紡全体の工場生産を管理するようになります。取り組んだのは「鐘紡の糸」をつくることです。つまり、どの工場でつくる糸も統一されて高品質であり、それに見合った価格で販売されるのが目標です。
このために、「徹底した標準化ときめ細かい作業指導」を進めます。兵庫工場を「模範工場」として、全ての工場が兵庫工場と同様な統一された生産ができることを目指しました。
そこで、取った方策は次の三点です。
第一は、先述の通り「よい原料綿花の確保」。第二は、兵庫工場に合わせた「作業の標準化」。です。今では当たり前に思えますが、明治33年のことです。
そして、第三の方策は、「職工の稼働率を低めて、定着性を高めること」です。
注意してください。「稼働率を高める」ではなく、「稼働率を低める」です。これを広言するのは、現代であっても難しいかも知れません。「女工哀史」の書かれるより、25年前のことです。
武藤は、職工の技能向上には勤続年数(経験)が重要だと考えていました。
1902年(明治35年)に兵庫工場内に「幼児保育所」が設置され、日本最古の社内報である「鐘紡の汽笛」(女工さん向けには「女子乃友」)を1903年に発刊しました。紡績業界初の「職工学校」は1905年に設置しています。
その後も鐘紡は、労働者保護(特に母性の保護)の施策をとっていきます。
(続く)