吉田松陰は、萩・毛利藩で山鹿流兵学師範という家業を継承しました。
松陰は自らの家業を「国防の専門家」と考えていました。
当時の日本は徳川幕府260年という古今東西に例が無い長い平安が破られようとしていました。この間、日本では外国との争いが無いだけでなく、内戦すらほとんど無かったのです。同じ期間に、欧米列強を含む世界の国は、激しい内戦を経験しながら外国とも戦っていたのです。
松陰は若くして家業を継ぎましたので、十代のころから藩主(毛利敬親公)に意見を述べています。19歳のときに提出した見解書には、次のように記されています。
日本が攻められることが無いとか、攻められても撃退できるという説には何も根拠がありません。
ロシアはカムチャッカを拠点に蝦夷を侵し、英仏はインド・清国を屈服させ豪州・インドネシアを押さえ、琉球で無法を働いています。日本の防衛には、蝦夷と琉球の平穏を守ることが肝要です。
また、侵略者は日本周辺の島々を占拠し。それを足掛かりに攻め込もうとするので、島嶼防衛に努めなければなりません。そのためには、大型の軍船でなく、高速の船を多数準備することが必要です。さらに本土まで攻め込まれた場合に、国民を守るために海岸線に砲台を築いて防ぐことを急がないとなりません。(注:当時は、武士の戦いは戦国時代そのまま時間が止まっていて、外敵に攻められたら上陸させて陸戦で撃退するという主張が多かったそうです。松陰は陸戦では国民に被害が出るので避けるべきだと主張しています。)
また、松陰は毛利藩の実務家なので、防長二国の海岸線防衛については、どの大きさの大砲をどこに何門置くとか、巡洋艦(と言っても帆船ですが)を何隻造るとか細かい方策を上申しています。
ここら辺までは、もしかしたら現代の優秀な19歳なら書けるかも知れませんが、松陰の真骨頂はここからです。
国防を果たすために最も重要なことは、仁政を施すことであると殿様に直接言っています。清国がアヘン戦争で敗れたのは外からの敵ではなく、国内の民衆蜂起(大平天国の乱)が原因であると・・。日本人には戦った経験が無いという、大きな不利がある。仁政こそが、国民の士気を励まし、訓練の効果を高めて、充実した兵力を備えることになるのだと、名君の誉れ高い毛利敬親公に注文をつけています。
その伝え方や方法には乱暴なことが多くて、必ずしも松陰の意志は遂げられなかったのですが、この気概は素晴らしいと思います。