「花燃ゆ」で再認識されている吉田松陰ですが、若い時分から随分な無茶をしています。
松陰は6歳で山鹿流兵学師範の吉田家の養子となり、19歳で藩校の兵学教授となります。22歳のときに脱藩したり、25歳のときにペリーに密航を断られたりしながら、28歳で松下村塾を開き、30歳で生涯を閉じます。とても若いときから優秀であり、随分と派手な活躍をした人物です。
この背景はいろいろあるのでしょうが、松陰が藩の兵学師範という吉田家の家業を継いで、これに極めて真面目に取り組んだと言う意味合いが強いようです。
山鹿流兵学師範という家業を、単に山鹿素行が興した兵学を学生に教授する仕事と考えると誤りで、兵学に基づいて藩の戦略を企画する仕事と捉えるほうがよさそうです。少なくとも松陰はそうとらえていたようです。
「学をなす要は己が為にするにあり」と松陰は書いています。孟子の言葉を引用しながら、自分のために学ぶのが学問であり、他人に教える学問は取るに足らないと言っています。山鹿流兵学も孫子など中国古典哲学がベースにありますが、それらをただ暗記することを学生に強制しても意欲も出ないし役には立たない。藩を発展させ、国はよくするために教えるのだという意思です。
兵学は学問と言っても実学であって、実際に活用してこそ発展すると考えていました。それこそが、吉田家の家業であるという強い責任感があったようです。結果的に、その責任感の強さが現状把握を誤らせて、松陰の判断を誤させることになりました。
6歳で後継となり、19歳で完全に家業を継いだわけですから、やはり若いです。
多くの先輩や知己を得ていたのですから、その意見や判断をもう少し受け入れる度量があっても良かったかも知れません。もちろん、この情熱が次の時代を創ることになる多くの人材に、目標と意欲を植え付けることにつながり、現在の日本の礎となったわけです。
若くして家業を承継される方はたくさんおられます。経験が乏しいなかで、突っ張っていかなければならない場面もあると思います。松陰は、事業承継では反面教師にもなりそうです。先輩や同業者の意見も尊重しながら、仲間を大切にして進んで行くことを心がけたいものです。